The Making of Arte Piazza Bibai

The Making of Arte Piazza Bibai

安田 侃

アートスペース

 私は鉄道員の息子として美唄駅前で生まれ育った。
 山から下りてくる膨大な量の石炭を台車で内地(本州)に毎日送るため、遊び場だった駅の引き込み線はいつも殺気立つほどの緊張に満ちていた。石炭の匂い、蒸気機関車の雄叫び、線路の熱さや震え、それらをまだ身体のどこかで記憶している。夜に鉄道官舎の窓から見える三井の山は、炭住の「あかり」がダイヤモンドかと思われるほど山々を美しく覆い尽くした。とくに白い冬の山にあざやかさが際立っていた。あの「あかり」のひとつひとつの下に人々の大切な日々があったのに、国のエネルギー政策の名のもとに時代の流れは石炭から石油へ。市役所の前を埋め尽くした赤い 旗の波もむなしく三井、三菱とも閉山し、激動のなか多くの人々が断腸の思いで山を下りた。

 時を経て、私はイタリアで彫刻の勉強をしていた。ミケランジェロがあの至宝ロンダニーニのピエタの原石を自らの手で切り出した石切場のある山の麓町、大理石の産地で有名なピエトラサンタで毎日石を彫っていた。この若い彫刻家に最初にきたモニュマン制作の依頼は、故郷美唄からだった。閉山になった炭山(ヤマ)に毎年お盆になるとたくさんの離山者が戻るという。しかし、人の住まなくなった山の自然回帰エネルギーの力は驚くほどたくましく、あの思い出の詰まった炭住も、駅舎も病院も、ほとんどの小中学校も、朽ちて木々に飲み込まれてしまった。何もなくなってしまったこの地に、かつて大きな炭鉱があり、たくさんの人々の毎日命をかけた真摯な労働があり、盆踊り・雪祭りなど楽しい日々が営まれていたこと、そして多くの炭鉱事故の犠牲者がまだこの山の地底に眠っていること———その記憶・思いを、形にしてほしいというのが美唄市からの依頼だった。大変難しい仕事になり、毎日夢中で石を彫った。地底に深く眠る魂に空気を送れないか、御魂を闇から吸い上げ家族のところに返せないか。そんな願いを込めてカタチ、白い大理石の三本の柱『炭山の碑』が、自然に戻った山並みを借景に建ったのは1980年のことだった。

水の広場

 この『炭山の碑』の基礎設計、建立を担当した当時の建設課長堂田賢治氏(故人)から、日本でのアトリエ探しをしていた私に、廃校にされたままの栄小学校の体育館を使ってみないかと持ち掛けられたのは1985年頃のことだ。体育館の外周りは雑草と高いヤブで覆われていたが、内部は 戦前独特の丸屋根木造構造で、どこか人を惹きつける素朴さを残していた。しかし床は腐りはじめ、天井から雨漏りし、このまま時が経てば他の建物同様朽ちていくのは目に見えていた。この元栄小学校の一部が残っていたのは、すき間だらけの寒く凍える古い校舎に通い続けた幼稚園児がいたお陰だと思う。通園する園児も減り、閉園寸前だったが、体育館のなかにポツンポツンと置かれ出した彫刻を時折、摩訶不思議なものを発見したように窓からのぞき込む子供たちの姿が見られるようになった。この子供たちがアルテピアッツァ美唄メイキングの大きな存在となってゆく。一面真っ白な雪に覆われた山の中の幼稚園に、どんな吹雪の日も色とりどりのアノラックを着て元気に通ってくる子供たちの姿が、私に何かを訴えかけていた。この子供たちが喜ぶ広場にしよう。この思いがアルテピアッツァ美唄創生の火種となった。

 美唄市と市民有志のこのプロジェクトへの懸命な挑戦は、町の過疎化、財政難のなか山の光を、人々の思い出を残そうと、ひとつひとつゆっくりだが積み重ねられていった。さらに数年をかけ、さわやかな夏風に葉ざめくポプラの音と光、360度の紅葉の山に囲まれた移りゆく四季のなか、広場に一点一点と彫刻がイタリアから運ばれてきた。彫刻が大地に置かれるその瞬間、ここアルテピアッツァの空気を吸うことが出来るかどうかで、この彫刻がこの地で生きていけるかどうかの分かれ目になるような気がしてドキドキした。
 彫刻たちが子供たちとも仲良く遊べるか、厳しい吹雪のなか毅然と立ち続けることが出来るかどうか、不安と暗中模索の10年だった。広い緑の芝生に現れた彫刻を遠巻きにして睨みつける人、通りがかりにそっと手で触れる人、何かを確かめるように抱きつく人、よじ登って遊ぶ子供たち、彫刻にそっと耳を当てて石の声を聞こうとする老人、やさしく頬ずりする人、大人も子供も一人ひとりの想いは違ってもそれぞれの素敵な感性で無口な彫刻たちと話し始めた。

アートスペース

 体育館と校舎の間には水の広場をつくった。山の斜面に置いた「天聖」と、対になる「天」を基軸に石舞台をつくり、その先に丸い池を掘った。石舞台と一体化した垂直の動かぬ石「天の下を水が流れ、時を刻む。石と水のほんのわずかな隙間に天と地の間(はざま)ができ、不可視のものを宿した。ミケランジェロの石切り場から出た白い大理石の玉石を運んでつくったこの小 川のせせらぎや丸い池は、流れる雲や見る人の気持ちまでも映し出す。やがて、小さな子供たちを遊ばせ、親は近くの芝生に寝転んでいるというほほえましい光景が生まれた。

 柵も入場料もなく、野外は24時間開放の自然体、読書する人、一人でのんびりと散策を楽しむ人の姿がある。改装された校舎の一枚一枚の壁板は、半世紀の歳月を刻んで懐かしい記憶が沈み込んでいるせいか、床板のミシミシという音とともに、何故かやさしい空気を創り出す。冬はストーブを焚いて部屋を暖め、訪れる人を待つ。校舎の窓からは雪景色。本当に真っ白な雪は人の気持ちまで白くしてくれるようだ。ただ存在するという以上でも以下でもない白い石に人の心や思いが宿り、託された時、はじめて時を越え過去と現在と未来を同時に結ぶ場に変わるだろう。そんな形のない大切なものを育んでくれる空間にアルテピアッツァ美唄が育っていくことを私は願っていた。

 この場所は今、優しく静かな精神性を湛え、一人ひとりの心の故郷のようにかけがえのない空間へと育ち始めている。
 

 心は形を求め

 形もまた心を求める

 思い思いに過ごした、豊かな時を胸に帰ってゆく人々の「また来ます」という言葉のひとつひとつは、
 この場所を未来へと繋いでくれるかのように響く。
 

 形ないものが
 形ある彫刻と共に
 確かに存在しうるということ

 この地に内包された過去という時間、そして永遠に繰り返される新たな自然が彫刻によって結ばれ、
 何ものからも解放された真に自由な感性を育む場所として、世代を超えて愛され続けてくれることを私は心から願っている。

 『安田侃の芸術広場 アルテピアッツァ美唄(北海道新聞社)』(2002年)に加筆修正

アルテピアッツァ美唄のあゆみ

1991年 閉校した旧栄小学校の体育館を交流スペース、アートスペースに改修。
1992年 7月、野外スペースを整備し、アルテピアッツァ美唄としてオープン。「真無」「吹雪」など5作品を野外に展示。
11月、アートスペースで初めての演奏会を開催。
1997年 水の広場開設。
1998年 旧栄小学校の校舎改修。
1999年 旧栄小学校2階にギャラリーを開設。
2001年 10月、北海道が創設した「北のまちづくり賞」知事賞受賞。
2002年 5月、安田侃さんが「第十五回村野藤吾賞」受賞。受賞対象作品が「アルテピアッツァ美唄」。
2003年 7月、天皇皇后両陛下、アルテピアッツァ美唄を行幸啓。
2006年 4月、指定管理者制度により、NPO法人アルテピアッツァびばいが管理運営を開始。
2007年 4月、ストゥディオアルテ、カフェアルテがオープン。ストゥディオアルテでは、毎月、こころを彫る授業を開催。
2009年 10月、NPO法人アルテピアッツァびばいが北海道新聞社「第8回北のみらい奨励賞」受賞。
2010年 1月、NPO法人アルテピアッツァびばいが「地域づくり総務大臣表彰」受賞。
6月、音の広場に「真無」を設置。
2012年 7月、アルテピアッツァ美唄20周年記念安田侃作品展「触れる」を開催。
12月、NPO法人アルテピアッツァびばいが北海道「平成24年度北海道地域文化選奨」受賞。
2016年 4月、登録博物館(美術館)となり、「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」に改称。
2017年 8月、アルテピアッツァ美唄25周年「安田侃ブロンズ展―時をつなぐ」を開催。
現在、野外・ギャラリー・カフェ・アートスペースを合せて約40点の作品を展示している。

ただ今、アルテピアッツァ美唄のアーカイブ作業に着手しています。
2013年度事業において作成しました年表「アルテピアッツァ美唄20年の軌跡(PDF144KB)」はこちらからご覧いただけます。