Vol.04 加藤 多一さん「雪のアルテピアッツァ」

「雪のアルテピアッツァ」

童話作家 加藤多一

 雪の季節にたずねることができたのは、実に幸運だった。
 積もっている雪・降ってくる雪が、トキとヒトとモノとの体温その相互関連の玄妙さを、改めて私につきつけてきたからだ。
 安田侃の石の作品が、雪に抱かれているとしよう。その場合、目で見える領域の裏というか、見えるものしか存在しないのだという私のごうまんな断定は、実は存在の裏側では石と水の分子構造に嘲笑されている──としみじみわかった。
 楽しさにひきづられて予定外に交流会まで出席した私は、友人の車のあるところまで早く帰ろうとあわてていた。
 何千万年前に大理石となったものの分子は、夕光の中で雪と水の分子と抱きあっていて、石が水に許しを乞うている。その一瞬を私は見てしまった。
 急いでいるからと足を止めることもなく彼等の会話に耳を傾けることもなく、侃が石に話しかけながら作品を創ったであろうそのときの言葉も聞かなかった。
 しかし、通りすぎたあとに後悔が来た。もう遅い。こんどくるときは、木も雪も石もトキとの会話のなかで、別の物語の舞台に進んでいるに違いないから──

 侃の作品を中心とするあの空間で、砂沢ビッキに出会ったことも不思議な事件だった。死んでいることがわかっているのに、ビッキの視線とあの声がたしかにあった。
 河上さんの解説と講演の虚飾のない語りが、私を狂わせた。ビッキが立っていて、私に言ってくるのだ。〈タイチ。ものほしげにうろうろするなよ、な。そして、いい仕事しろよ〉
 河上さんは、昨夜のことのようにビッキを語る。彼がいなければ晩年のビッキ作品群はなかった──と私は思っているし、私自身が河上さんに不義理をしている心の揺れもあって、ビッキのでかい体にぶつかるほど近くに立ってしまった私であった。
 それにしても、万物を支配する(いやそうではなくその分子の中に存在する)トキとは何なのか。
 炭鉱はなやかなりしころの木造校舎が雪の景のなかで美しかったが、その正体はほとんど炭素ないしはその化合物だ。かりに、百年後、それはどうなっているか。あのとき集まった人々や作品はどこにいるのだろう。