Vol.17 田中 貴文さん「じん肺根絶の誓いを新たに アルテピアッツァ美唄に記念碑建立」
「じん肺根絶の誓いを新たに アルテピアッツァ美唄に記念碑建立」
弁護士 田中貴文
夕暮れ時になると石狩川の川向かいのヤマにぽつぽつと灯りがともりはじめ、辺りが漆黒の闇につつまれる頃になると山頂付近まで夥しい数の灯りが瞬き、その灯りは終夜消えることはなかった。毎日がお祭りのようで、あの灯りの下で人々のどのような生活が営まれているのか、農村の浦臼で育った幼少の私には想像することもできなかった。後で分かったことだが、あれは昭和30年代の住友奈井江炭鉱の灯りだった。
砂川南高校に入学したが、クラスの約半数は三井上砂川、北炭神威、住友歌志内、北炭空知などの炭鉱街から来ていた。高校2年生の時、クラスメイトの父親が肺を患って長い闘病生活の末に亡くなった。彼女の父親はまだ40代だったが、おそらくじん肺で亡くなったのだと思う。その頃は「じん肺」という病気のことは知らなかった。
かつて北海道にはたくさんの金属鉱山、炭鉱があり、明治期には殖産興業の名の下に、戦時中は戦争遂行のために、そして戦後復興の基幹産業として、金属鉱山、炭鉱は日本の経済発展のために寄与してきました。しかし通気の悪い地下で大量の粉じんにさらされて働いた結果、多くの労働者がじん肺に罹患しました。じん肺に罹患すると、常時、咳と痰、息切れに悩まされるようになり、やがては歩くことも困難になり、最期は酸素テントのなかで壮絶な死を迎えることになる。多くの労働者がじん肺に罹患して苦しい闘病生活を送り、亡くなっていきました。
北海道では昭和55年に金属鉱山のじん肺患者が、昭和61年には炭鉱のじん肺患者がじん肺被害の回復を求めて提訴しました。私は、昭和63年に弁護士になってから、金属じん肺訴訟、石炭じん肺訴訟の弁護団に加わり、以降約25年にわたってじん肺の被害救済、被害根絶のために活動してきました。
被害者原告と弁護団は、国や企業から得た賠償金の一部を「基金」として積み立て、じん肺根絶の諸活動に充てることとして、平成5年4月に「北海道じん肺基金」を設立しました。基金は、釧路太平洋炭礦離職者のじん肺健康診断、毎年10月に行われる「なくせじん肺全国キャラバン」(今年で22回目を迎える)、平成23年4月に提訴された「北海道建設アスベスト訴訟」の支援などに使ってきました。
「基金」設立から15年以上が経過して、じん肺患者も相当高齢化したことから、この「基金」を有効に活用する方法を検討することになりました。1年半に及ぶ準備期間を経て、昨年10月2日に、旧産炭地美唄市出身で世界的に著名な彫刻家である安田侃氏の作品「胸いっぱいの呼吸(いき)を」を、アルテピアッツァ美唄に建立することができました。
碑建立は、日本経済発展の陰で多くのじん肺患者が犠牲となったことを歴史に刻むとともに、現在もなお炭鉱、トンネル工事、アスベストなどでまだじん肺患者が発生し続けていることから、「じん肺根絶」の誓いを新たにしようという趣旨に基づくものです。記念碑建立で終わりにはせず、毎年7月の第1土曜日には、記念碑の前に集まって、じん肺根絶の思いを新たにする集いを開くことにしました。
アルテピアッツァ美唄の空間で、炭鉱の盛衰と、その陰に埋もれていたじん肺の被害に思いを寄せていただければ幸いです。