Vol.27 マーク・ブラジルさん「心躍る至福の芸術空間が人々を待つ、アルテピアッツァ美唄」
「心躍る至福の芸術空間が人々を待つ、アルテピアッツァ美唄」
作家、ナチュラリスト マーク・ブラジル
北海道には、芸術を愛する人々に新鮮な喜びを与えてくれる場所がいくつもあるが、中でも素晴らしいのが、北海道の行政の中心で玄関口でもある札幌からわずか一時間足らずの場所にある、アルテピアッツァ美唄である。かつて炭鉱の町として栄え、その後衰退の道をたどった美唄は今、芸術を自然と組み合わせるという類いまれな先見性で一躍有名になった。アルテピアッツァを訪れる人々は、美しい庭園に配置された安田侃の素晴らしい彫刻を通して自身の内なる宇宙と外なる宇宙を探索し、作品を眺めて感動すると同時に、直接手で触れ、感触を確かめ、風景の中で思う存分味わうことができる。まさに魂を揺さぶるこの試みは、きわめて特別な環境下で自らの感覚を探る旅へと来訪者をいざなう。
野外空間でこれらの壮大な彫刻を眺めていると、もはやこの芸術家のことも、彼がこの作品を通じて表現したかったことも、どうでもよくなっている自分に気づく。思うのは、創造的な芸術と周辺環境との心地よい融合、移りゆく季節にともなって進化する自然の美。作品のいくつかが、奥尻島の浜に立ったとき、持ち帰りたいとふと思った、波に洗われたどっしりとした花崗岩や、石狩川源流で見た、山あいの沢水で磨かれた石に似ているのは、単なる偶然であろうが、それらの石同様、作品たちには思わず触れずにはいられないなめらかな感触があり、そこに座ったり、一休みして周囲の自然を見渡したり、さらにはもたれかかって空を見上げることすら、誘いかけられている気がする。さらに印象的なのは、彫刻の持つ不変の堅固さと、季節のうつろいに合わせて姿を変える周辺環境とが織りなす、見事な調和がそこに存在していることだ。
アルテピアッツァ美唄の敷地内を気ままに歩くと出会う小道は、いくつかの彫刻へと導いてくれる。森に抱かれるもの、緑の芝生の広場に置かれたもの、学校の体育館の中にあって子供たちが大喜びで登ったり、触ったりするもの。戸外の陽だまりで温められたブロンズ造形を見ると、その心地よいぬくもりにもたれかかって空を眺めたくなる。昼間は雲の形に想像を巡らし、夜は星空の不思議に思いを馳せる。冬、大理石たちは白いベールで守られ、ブロンズたちは雪のケープや周囲の深雪をまとって柔らかな表情を見せる。全体の景色は、クリスタルの砂漠のような不思議な様相を帯びる。それは、自然のベールをまとったアート。
黒っぽいブロンズの彼の作品の中には、過去が垣間見える気がする。命を落とした鉱夫や、姿を消した町の子供たちを思って嘆く声、夜の帳のようにこの地の空中を漂っていただろう炭塵のなごり。しかし、イタリア産大理石作品の白さの中には、炭鉱町の風景を美しく包む純白の雪が見える。作品を取り囲むあふれんばかりの自然を見ると、何度もここを訪れ、青い夏空や、鮮やかな秋の紅葉、春の新緑、青々とした夏の緑を背景にした作品たちを眺めたくなる。降り積もったばかりの粉雪が、彫刻をやわらかく包むのを見たくなる。
手で触れて感触を味わう作品も多く、子供たちは喜び、大人は時に涙する。長い時間眺めてじっくりと浸りたくなるような作品もある。アルテピアッツァの水のしつらえは、私の限られた経験から言えば独特である。華麗な西洋庭園で見られる左右対称で目を引く噴水などの、技術や熟練を誇示するようなものはここにはない。日本の寺院の庭先や、広大な回遊式庭園で見られるような、自然の池や川を模した、禅の流れを汲む完成度の高い表現もない。代わりにあるのは「誘い(いざない)」だ。白い大理石の小石を敷き詰めた浅い池は、水遊びを誘っている。一方、静かな水面に映る学校や空を見ると、時を忘れた世界に誘われる。その隣にある白い大理石に映える水路は、丘のそばの枠組みからよく見えるが、流れに沿って歩くと巧みな設計の効果で、轟音をあげ、ほとばしるように流れる渓谷の水、やさしく含み笑いをするように流れる平野の小川、静かにつぶやく池の水など、さまざまな音の風景を味わうことができる。日本の三大回遊式庭園である兼六園、偕楽園、後楽園のように、アルテピアッツァ美唄も、あてもない散策にうってつけだ。ただ、それらの庭園の管理された回遊環境と異なり、安田侃が美唄に築いた至宝は、文字通りの自由散歩と、想像の世界の自由散歩をいざなっている。